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素知覚は、見えない世界をひらく—— 畑山太志がカンバスに編む、生命非生命の共存


アーティスト 畑山太志さん (Photo by Kohei Hanawa)




彼が描く白い絵画はまるで森の入り口だ。木々のささやき、川のせせらぎ、小さな存在たちの気配さえ聴こえてくる。彼はありのままの知覚《素知覚》を手がかりに、目には見えない世界を視触的に描き出す。白の塗料に淡い混色を施しながら、一つ一つの生命非生命をカンバスに編み込む。鑑賞者はおそらく「ここに何が描かれているのか」と尋ねたくなるだろう。しかしその質問は、彼の作品を観るうえで本質ではないかもしれない。なぜなら、彼の作品は観ることを手放し、ありのままに感じ始めた時に初めて、作品が語りかけてくれるからだ。知覚をひらいて素知覚へ還る。ありのままに感じている自分自身と出会うことで、作品から聴こえてくるあらゆる存在たちのハーモニーが感じられるだろう。


今回は「知覚をひらく」をテーマに、2020年6月26日から7月17日にEUKARYOTEで開催された個展「素知覚」から白い絵画シリーズを起点に、彼の世界観や作品の魅力についてお話を伺った。


《素視》(2019-2020年制作)



 

(ゲスト:畑山太志 聞き手:小林泰紘、鈴木望美)



生命のリアリティにふれる

主客未分の世界



——白い絵画には、日本的な精神性やアニミズムと繋がる美意識を感じます。白い絵画はどのような作品なのでしょうか。



白い絵画は、樹齢何百年の御神木を前にした時に感じる樹木の存在感や場の空気感のような、目には見えないけれど確かに身体は感じている感覚を描いています。


もともと白の色彩は好きで興味があり、白について調べるなかで原研哉さんの著書「白」を読みました。白には顕在性が表れているとの考え方が書かれていて、白からは個々のオリジナリティが引き出されつつ調和が保たれながらも、それぞれが際立つユートピア的なイメージを抱きました。目には見えないけれど確かに感じている存在感や空気感を描き出すために、カンバス全体を白の筆触で覆い、絵画でありながらより空間的な体験をともなって表れてくるように描いています。


その作品が、第1回CAF賞(2014年)で優秀賞と名和晃平賞を受賞し、この受賞をきっかけに、セゾン現代美術館での展示をはじめ多くの方に作品を観ていただける機会を得ることができました。一方で、完成度のある作品が生まれたので、一度白い絵画の制作を離れ、新しい表現方法を探ろうと約5〜6年、色の絵画を制作していきました。



展示作品(左から):《水の導き》、《素視》



——そこから色鮮やかな作品を展開されていったのですね。今回の個展では改めて白の絵画を制作されていますが、違う表現手法を経てどのような変化を感じていますか。



色彩を削ぎ落とした白の絵画から一転、色彩豊かな色の絵画を展開していきました。


以前訪れたフィンランドの森で、木が倒れて、その木の根がそりあがっているところを見かけたんです。遠くから見ると、まるで木の根が得体の知れない生き物のような存在に思えて、不思議な感覚に陥りました。その後に感じたのは、木の根そのものよりも、場そのものにこそ生命が宿っているのではないかという感覚です。同時に、この感覚を描き出す時に木の根に焦点を当てて描こうとすると、見るものに主従関係が生まれてしまうことに気付き、違和感を覚えました。


木の根そのものを描くより、場そのものに存在するすべての生命非生命を等価に扱い、それらが同時にみえて体験されることの方が重要なのではないかと感じて、オールオーバーという画面全体に筆触が満たされることで体験的な画面が立ち現れる手法で描きました。場そのものを描き始めてから、次第に自分が知覚できる領域の外側へと関心が広がり、具象的な表現から抽象的な表現へ、知覚の内側から外側へと作品が変容していきました。


しかし、知覚の外側と言っているけれど既に身体は感じているのではないかと改めて気が付いて、今回の展示は、知覚そのものに原点回帰をしたありのままの知覚〈素知覚〉をコンセプトにしています。新しい表現手法を経て知覚そのものに対する認識が深まり、コンセプトがより明確になってアップデートされた感じがありますね。





みる/みえる/みられる

描くことは「みる」を溶かすこと



——見るものに主従関係が生まれてしまうという視点は面白いですね。私たちは普段「これはどういうもので何からできている」というように、仕組みや事物を外側から客観的な第三者として観察する認知のあり方が当たり前になっていると思います。畑山さんは、自分の内側から生命をみていたからこそ、場そのものに生命が宿っていることを感じ取れたのではないでしょうか。そうした時、畑山さんはどのような感覚で描いているのでしょうか。



絵を描く行為を通じて自分の無意識的な領域や潜在意識にタッチするような、自分の身体における見えない領域を通過して作品が生み出されていく感覚があります。自分の身体を他者性として扱うというか、自分の身体の内側にあるはずなのに理解できていない領域に触れていくことが、絵を描く行為ではないかと考えています。


また絵を描くことは、頭で考えたことを再現することではなく、描くことで常に予想外なことが起こってくる。ブラックボックス化された自分の身体を探るような関係性もあり、だからこそ描くことは面白いし興味が尽きないですね。自分の内に潜むものを探ることは内向的なことではなく、自己を深めることは自他の区別のない普遍性につながる行為なのではないかと思っています。



——畑山さんがそういう状態でいるために大切にされていることはありますか?



場そのものに生命が宿っている感覚や、樹齢何百年の御神木を前にした時に感じる樹木の存在感は、頭で考えて概念的にモノゴトを見ていると感じとれない領域だと思います。それらはボーっと油断しているときに、ふいに飛び込んでくるというか。


その飛び込んでくる何かを逃さないために、自分の心の中に余白をつくっていくことは大事なことだと感じています。例えば、リラックスしている状態を保つようにするとか。自分の感覚が要求してくることに素直になるのは大切ですね。



——そのようなサインは感覚を開いていると世界からくるのでしょうね。その感覚を捕まえようとして客観的に捉え始めると消えてしまったり、逃げてしまったりするのだと思います。



絵を描く行為はどうしても「何々を描く」というように、観察者の立場になりがちです。モノを観るということはその時点で、観察者としての主体と、観察される客体に分かれた状態が生まれてしまいます。しかし、それは私たちの言語構造が主体と客体を分けてモノゴトを認知する仕組みになっているからであって、おそらく実際に感じているリアリティとは違っていると思います。


絵を描く行為は、じつは対象を描く行為ではなかったり。自らがその環境や場に身を投じて描くことで頭を覆っている言語構造を融解させていくことが、描くうえで重要なことだと思います。


展示作品(左から):《降りてくる月》、《空気(身体)#2》、《天気図 #1》、《天気図 #2




<西洋と東洋><人工と自然>

重なる、あわいの感覚



——「感じる」ことを「五感」と想起する人が多いと思いますが、人の身体は五感以上のものを感じ取っていると思います。例えば、崖から落ちそうになったときに頭で考えるよりも先に身体が動いてしまう感覚とか。実は誰にでも起こり得る経験だと思います。


そのように五感以上のものを感じとれる状態であるために大切なことは、対象化しないことだと思うんですね。対象化するのは思考の働きなので、対象化すると自分と環境とが切り離されてしまう。環境学者のティモシー・モートンは、環境を人間から切り離された対象化された存在ではなく、人間を環境と溶け合ったアンビエントな存在として捉えています。彼は、エコロジカルな転換のスタートとは、自分自身の内側とつながり直していくことだと語っていますが、畑山さんは、そういう文献にも触れていたのでしょうか。


篠原雅武さんの著書「複雑性のエコロジー」を読んで、ティモシー・モートンの思想に触れたり、知覚領域の外側にも興味があったので思弁的実在論やオブジェクト指向存在論なども調べたりしていました。


ティモシー・モートンやエマヌエーレ・コッチャの思想は、東洋思想で語られているような主客未分の状態と近しいものを感じますが、西洋の文脈で語られているので、どこかしら人間と自然というように主体と客体がある言語構造を逃れつつもそれを担保しながら乗り越えようとしているように感じます。一方で、東洋思想は身体感覚的に親和性があるので共感しやすいですね。


モートンやコッチャの思想は自分とは少し違う香りがするので、そこにどのような可能性を見出すことができるのかには興味があります。



——京都学派の西田幾多郎が、西田哲学によって西洋的哲学の限界を乗り越えようとしたけれど、最後のアウトプットのフォーマットを西洋論理に戻さなければいけないところに限界があったという構造と同じですね。歴史の中にはあると思いますが、現代はもはや思想的に東洋と西洋の対立は存在していないと思います。互いに近しい何かを感じ取っている。それをあわいの感覚といった縁起的な哲学思想と掛け合わせていくことで、東洋と西洋の融合が集合意識的になされようとしているように感じます。



モートンなどの思想に触れていると、もはや人工と自然は切り離せないといったような考え方に興味が出てきました。


過去に描いた《共存》というペン画作品では、全ての生命非生命を等価に扱う作品を描きましたが、モノも生きているのではないかというアニミズム的な東洋の感覚とはまた違った感覚が、最近自分の中に入ってきています。それは西洋的な感覚でモノをオブジェクトとして扱うことによって、逆にモノに主体性を持たせて扱っている感覚です。人工と自然が入り混じり合う世界の中で素知覚を働かせたときに、いわゆる自然に対する感覚だけではなく、デジタルの世界で素知覚がどう反応するのかということは次の興味でもあります。


「草木言語」はその走りになっていく作品だと考えています。例えば、AIによる自動生成のアニメーションを見た時の没入感は、風に揺らぐ木の葉の光のきらめきに見惚れてしまう感覚と似たような印象を受けます。また、ウェブ上で絶えず生成されていく画像の重なりは、一つ一つの空間が切り取られ、時間と空間の多層性によってデジタル空間に場が生まれていると感じます。


デジタル空間の中にも自然から得られる感覚と近しい感覚が存在しており、それらの類似的な重なりが絵に取り込まれた作品になっています。


展示作品(左から):《天気図 #3》、《草木言語 #2》、《草木言語 #1




——最後に、畑山さんがこれからやってみたいと考えていることをお伺いできますか。


数学者の岡潔は、スミレの花を見たときに「いいな」と思う感覚を「情緒」と言い表しました。この「いいな」と思う感覚は、なぜそうなるのかわからないと言っています。


世界が移り変わってきている状況で、価値観が大きく変容しています。自然という概念も、人工と自然の関係性そのものが問い直されている現在、人間に本来備わっている根源的な感覚や知覚に、より敏感になっていくことは大切なことだと思います。自らの身を投じることによって素知覚を働かせ、今揺れ動いている世界そのものを自分の身をもって感じとっていきたい。絵を描くことによって考えていく。それを、デジタルやテクノロジー空間も含めた生命非生命が共存する大きな自然として表現していきたいです。



 

個展《素知覚》


会期|2020年6月26日(金) - 7月17日(金)

会場|EUKARYOTE(東京都渋谷区神宮前3-41-3)






 

sense of. TALK


エコロジーとアートのあわいを漂うトークシリーズ『sense of. TALK』は、Ecological Memesの音声メディアチャンネルでも配信しています。


[sense of. TALK#2]知覚をひらく










 

【ゲスト】


畑山太志(はたやま たいし)

アーティスト


1992年神奈川県生まれ。2017年に多摩美術大学大学院美術研究科絵画専攻油画研究領域を修了。現在は東京都、千葉県を中心に活動を行う。視覚では捉えることができないものの、自然の場で身体が確かに感じ取る空気感や存在感の視覚化を試みる。「素知覚」と呼ぶ、知覚の外側ではない本来身体が持っているはずのありのままの知覚を手がかりに、目に見えない世界を表象する。2014年に白を基調とした絵画作品で「第1回 CAF 賞」の優秀賞と名和晃平賞を同時受賞後、自然のさまざまな現象が持ちうる環世界や植物が多様な生物とともに形成するネットワーク、さらにはデジタルや AI までをも含みこむ現代における新たな自然など、多様なモチーフをベースに制作を展開する。主な展示に、「神宮の杜芸術祝祭」(明治神宮ミュージアム/東京、2020)、「素知覚」(EUKARYOTE/東京、2020)など。



【聞き手】


小林 泰紘(こばやし やすひろ)

Ecological Memes 発起人 / 株式会社BIOTOPE Creative Catalyst 


世界26ヶ国を旅した後、HUB Tokyoにて社会的事業を仕掛ける起業家支援に従事。その後、人間中心デザイン・ユーザ中心デザインを専門に、金融、人材、製造など幅広い業界での事業開発やデジタルマーケティング支援、顧客体験(UX)デザインを手掛けた。現在は共創型戦略デザインファームBIOTOPEにて、企業のミッション・ビジョンづくりやその実装、創造型組織へ変革などを支援。自律性・創造性を引き出した変革支援・事業創造・組織づくりを得意とし、個人の思いや生きる感覚を起点に、次の未来を生み出すための変革を仕掛けていくカタリスト/共創ファシリテーターとして活動。座右の銘は行雲流水。趣味が高じて通訳案内士や漢方・薬膳の資格を持つ。イントラプレナー会議主宰。エコロジーを起点に新たな時代の人間観やビジネスの在り方を探る領域横断型プロジェクト Ecological Memes発起人。



鈴木 望美(すずき のぞみ)

Ecological Memes Art Unit sense of. 共同発起人


多摩美術大学 空間デザイン修了。地方公務員を経て、産官学連携を軸に公共空間を活用したアートプロデュースなどを手掛ける文化財団に参画。メディア芸術祭との連携事業や若手作家交流会企画を担当。その後、領域を横断し社会価値を共創するコミュニティスペースでPR・運営に携わる。現在はEcological MemesのArt Unitで言語では表し切れない領域を表現者の澄んだ眼差しや繊細な好奇心による表現を通じて、世界を知覚していく活動を行う。



 

Ecological Memes Global Forum2021に畑山太志さんが出演します

Ecological Memesでは、2021年3月18日〜3月21日(日本時間17:00-22:00)にかけて春分グローバルフォーラムを開催します。「あわいから生まれてくるもの - 人と人ならざるものの交わり- 」をテーマに、ビジネス・アート・エコロジーの第一線を切り拓く多彩なゲストが国内外から集います。

春分という天体運行の大きなリズムや生命の躍動に耳を澄ましながら、東西を超えてこれからの時代に必要とされる思想や哲学、ビジネス実践を探索する4日間。みなさまのご参加をお待ちしております。



■ 開催概要

日時:2021年3月18日(木)- 3月21日(日)17:00 - 22:00 JST(8:00-15:00 CET)

会場:オンライン(Zoom)

言語:日本語・英語(Zoomの同時通訳機能を活用し、日英両言語での配信となります)

詳細・申込は下記ページをご覧ください


■ 畑山太志さん出演トークセッション

日時:2021年3月19日(金) 20:00 - 21:00 JST(12:00 - 13:00 CET)

テーマ:『人間的なるものを超えた人類学とアート - 都市空間における生命と非生命、物質性 -』

ナビゲーター:Lukas Ley(人類学者 / ハイデルベルク大学)

トークセッションゲスト:畑山 太志(アーティスト), Tomoko Sauvage (アーティスト)

内容:

「もの」に命はあるのか?人類は長い歴史を通じて物質に頼った文化を築き上げ、その結晶ともいえる都市空間をも生み出した。しかし視点を転換すると、物質が人間生活を左右しているともいえないだろうか。世界中では今、一方向的な人間中心のネットワーク理論を見直し、人とものの関係性を「相互依存」や「生命性」という新たな語彙とともに想像し直す試みが湧き上がっている。本セッションでは、「砂と共に考える」研究を実践するドイツの人類学者Lukas Ley氏、「素知覚」を手がかりに生命のリアリティを探求・表現するアーティスト畑山太志氏、パリを拠点に活動する「水の音楽家」Tomoko Sauvage氏とともに、人間的なるものを超えた人類学とアートの地平を模索する。



Edit by Yasuhiro Kobayashi

Text by Nozomi Suzuki

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